おっさんの寝言、小言、独り言

焼酎好きおっさんの「娑婆」論考。

こうして時代に取り残されるのだろうが、それでもおっさんなりのポリシーで

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子供の相手をした後は、夜の“大人”の時間がある。

つまりは「お酒」という意味なのだが、
それが楽しみで(?)「夏休みの思い出づくり!海の子どもキャンプ」にスタッフとして参加をしてきた。

 

ところがどっこい、知命(天命)に片足を突っ込みかけ、このところ右肩、腰、内臓etcと体のあちこちがどうもよろしくないおっさんは、
そこにカンカン照りの晩夏の太陽が加わり、ちっとも身体が動けない状態で、
子供たちの相手もろくに出来ず、フル参加することなく逃げるように帰ってきてしまった。
(もともと3泊4日のスケジュールで2日間だけのスタッフです…!)

 

さて、夏の島キャンプということで、「海」=「海水浴」は当然のことながらつきもの。

子供たちは、半分以上海で泳いだり、遊んだりすることを目的として参加するわけだ。
そこで見て感じた現代事情のひとつを書こうと思う。

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まずはおっさんのメモリー(思い出)からだが、
子供時代の夏の海といえば、家族、あるいはそこに親戚や町内会が加わり、大勢で海水浴に行ったということがある。

近郊の、時には少し離れた海水浴場を訪れ、海で泳ぐわけだが、
そこには海の家があり、親たちはその一室(掘っ立て小屋?)を借り、
そこから子供たちが泳ぐ姿を見ていたのだが、
当時の子供たちの格好といえば誰もが水着にビーサン(ビーチサンダル)1つだったわけだ。

 

男の子ならば海パン一丁で上半身は裸という格好をしていたもの。

それが小学校高学年ぐらいになると水中メガネなどを持ち始め、
中学校頃にはそこにシュノーケルが取り付けられ、
凄い人(お金持ち)となると足ヒレを持っているということもあった。

またどれだけ日焼けをしたかということがひとつの夏のステータスであり、
当然日焼け止めを塗ることもなかった。

 

そんなことを思い出すのだが、いつの頃からか海に泳ぎに行くことも少なくなり、
いつしかおっさんはプールに泳ぎに行くことはあっても、
海へ泳ぎに行くことは全くなくなってしまっていた。

ところが今回島キャンプに参加することで十数年ぶりに海で泳ぐこととなった。

そこで見たのは昔とは変わってしまった子供たちの海水浴スタイルだった。

 

男の子のほとんどが海水パンツだけでなく、
長袖の上着を着用し、海用シューズを履き、グローブも付け、ゴーグルをつけるか、水中眼鏡にシュノーケルを持っているのだ。
(女の子の場合水着に更に長袖上着、グローブにマリンシューズ。)

それを見て時代はすっかり変わった、進化した(?)のだな~と思った。

 

子供たちの格好を見た時最初はやっぱ子供は海パン一丁でいいのではないか???
と思ったりしたのだが、
考えてみれば今や紫外線は危険レベルであり、
砂地にもガラス片等の危険物がどこにあるか分からず、
更には人が雇われ管理されているビーチでない限り様々なゴミの漂流物があり、
海の中には今や熱帯性の毒を持った生き物が北上しどこにいるか分からない。

それを考えると身を防御しなければならず、今や子供たちはそういうものを着用するのが当然のこととなっているわけだ。

勿論そこには上着やシューズなどが次々に開発され身近になったこともあるのだろう。

 

そう考えると子供たちの格好も仕方がないと思うのだが、
それでもやっぱり何となくおっさんにとっては子供たちがせっかく自然に接しているのに、それだけの装備を身につけていると、
どこか自然と隔離されてしまっている感を抱いてしまうのだ。
そしてこれは本等に子供たちにとって良いことなのだろうかと考えてしまうのだ。

 

そんなことを言っても時代はどんどん進化していき、それに伴い道具類も進化しているわけである。

考えてみればおっさんの子供時代にしてももっと昔と比べるとそれなりに進化したものを身に付けていたのだ。

更に今や世の中は紫外線だけでなく、放射能も漂うようになり、福島では遂に防護服を着た子供像が現れており…、
きっとおっさんのような考えを持つ人間が一番時代に取り残され、
いつしか世間から鬱陶しがられるのだろうな。
(既に鬱陶しがられていますが…。)

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でもやっぱりおっさんにとってはなるべく自然と共にありたいのだ。

さすがに今回のように炎天下の下に1日中いる時は、長袖を着用し、
日焼け止めを付けるのだが、
普段は日焼け止めを付けることなどなく、
自家製赤米乳酸菌培養液を顔や腕に付けそれで対処しており、
なるべく自然のものを使うようにしている。

 

そこでおっさんの結論として、時代の進化に合わせて道具を選ぶのはいいことである。

けれども企業が生み出したものを何でもかんでもよいものと鵜呑みにするのではなく、
何が必要で、何が不必要かをきちんと吟味して、
それを使うか使わないかの判断が必要ではないかと思うのだ。

何故なら今やメディアやマーケティング世界はどんどん研究され発達し、
(企業が)お金を出せば、不必要なものでも、必需品のように思わせることができる。

更に国民にもっと消費させるということが国(政府)の政策となっており、
それらを何も考えず無条件に受け入れてしまえば、思うつぼであり、
ますます国民が消費奴隷となってしまう世界が待っているからだ。

 

子供たちにはそこまで考えたり、判断したりする力はないのであり、
それをきちんと判断してやるのが親の一つの仕事ではないかと思うのだ。

そして子供たちに自然との接し方を教えること、
そして自然への畏敬の念を教えることも大事やな~と思った次第である。

 

最後に大人の時間を楽しみにしていたのだが、
日中の活動で疲れ果てたおっさんは飲む前から睡魔に襲われ、
眼も開けていられないようになり、缶ビール1本飲むのがやっとだった。

これではあかん。もっと体を鍛えなあかん!と、
日常のあり方を反省させられた次第だ。