おっさんの寝言、小言、独り言

焼酎好きおっさんの「娑婆」論考。

f:id:ossanvoice:20181126132331j:plain

2025年に大阪で万国博覧会が開催されることに決まった。

50年ぶりにの大阪での開催、更にその経済効果は2兆円ともいわれ、早速地元では大変な盛り上がりのようだ。

確かに1970年にあの太陽の塔をシンボルとする万国博覧会においては今後の日本の発展に拍車をかけるものであったろうと思われる。

振り返ればこの50年間に科学はとてつもなく進歩した。

けれども50年経過し成熟しきった日本の経済社会において本当に万博が必要なものなのかと疑問の方が大なのである。

 

というのも1970年に大阪万博が開催され、それ以降日本では4度の万博が開催されているのであるが、それを見てみると

1970年(昭和45年) 日本万国博覧会
           テーマ:人類の進歩と調和
1975年(昭和50年) 沖縄国際海洋博覧会
           テーマ:海―その望ましい未来
1985年(昭和60年) 国際科学博覧会
           テーマ:人間・住居・環境と科学技術
1990年(平成2年)  国際花と緑の博覧会
           テーマ:花と緑と生活の係わりを捉え 21世紀へ向けて潤いのある社会の創造を目指す
2005年(平成17年) 日本国際博覧会愛・地球博
           テーマ:自然の叡智
2025年(新元号6年)大阪万博
           テーマ:いのち輝く未来社会のデザイン

となるのだが、そのテーマと地球や世界の社会情勢、日本の社会を考えると、1970年を除いて滑稽以外のなにものでもないと思ってしまうのだ。

75年の海洋博のテーマは「海~その望ましい未来」だが、今世界の海はどうなっているだろう?
海洋資源の乱獲が行われ、海底資源の開発で海は汚され、更には世界中がプラスチックごみであふれかえっている。

85年の科学万博のテーマは「人間・住居・環境と科学技術」だが、日本の家屋は化学物質だらけで、今では30年もてばよいものとなってしまっている。

90年の花と緑の博覧会のテーマは「花と緑と生活の係わりを捉え 21世紀へ向けて潤いのある社会の創造を目指す」だが、今や社会は格差社会貧困層は増え続ける一方、うつ病患者は推定500万人、生産活動世代の死因のトップは自殺であり、一体どこが潤いのある社会なのだろう。

そして一番直近に開催され、今でもよく覚えている人も多いと思うが2005年の愛・地球博のテーマは「自然の叡智」であり、今やあまりに人間が地球環境を破壊してしまったがために、世界中で異常気象は頻発し、これまでになかった規模の自然災害が多発しているのが現状である。

これらを顧みると万博とは一体何であろうかと思わざるを得ない。

 

先にも書いたが、ニュースの記事で政府の試算によると2025年の大阪万博開催による経済効果は2兆円だそうだ。

そして大阪府・市は万博に合わせて会場となる大阪湾の人工島・夢洲(ゆめしま)でカジノを含む統合型リゾート(IR)の開業も目指しており、今後、地下鉄延伸や湾岸エリアの再開発などインフラ整備が加速しそうとのこと。

結局万博とはスクラップビルドを通じて経済効果を期待するものであり、その掲げられたテーマなど表の看板に過ぎないものなのだ。

ましてやカジノ建設までもくろむ政府や大阪の野望を知れば、今以上に人間や社会を、そして自然を狂わせるもの以外のなにものでもないのではないだろうか。

「いのち脅かす未来のデザイン」と言われそうだ。

 

更に万博の開催に当たって会場の建設費に1250億円かかるそうだ。

東京オリンピックは当初3000億円といわれていたものが、いつの間にか3兆円となった。

果たして大阪万博はいくらになるのだろうか。

少なくとも5000億円以上となることは間違いないだろう。

一体どれだけの日本人がそれを本気でよしとするのだろうか。

そして結局はこれもまた税金で賄われるのだろうし、利権屋が群がるだけのものとなるのだろう。

 

もし本当に「いのち輝く未来のデザイン」を本気で考えるならば、1250億円を万博開催に使用するのではなく、本当にこれからの地球や人間、そしてすべての生命を輝かせる未来技術を国民投票で選び投資すればどうだろう。

あるいは日本全国で海洋ゴミ、山間地域に放棄されたごみを日本国民全員がボランティアとして拾い集めることに使用すればどうだろう。

そしてそれを総理大臣を始め、各大臣、国会議員、国家官僚が率先してするというのはいかがだろう。

そうすれば日本の国土もきれいになるだろうし、すっかり汚れてしまった国家機関とその関係者も少しは浄化されるのではないだろうか。(まあ現状のあの人たちは鼻で笑うだけであろう…。)

 

そしてきれいになった日本全国に外国人を始め多くの人々に訪れてもらい、美しき日本を見て楽しんでもらうとともに、地域活性化とつなげていく。

そんな新しいカタチの万国博覧会があってもよいのではないだろうか?

そう焼酎を飲みながらニュースを見たのである。

 

 

日本人は外国人に冷たいのか論考

f:id:ossanvoice:20181122095106j:plain

日産のカルロス・ゴーンCEOが逮捕された。
何でも100億近くの報酬を半分に見せかける虚偽の記載をしていたとか…。
その他にも日産の子会社に世界中の不動産を買わせていたとかいろいろと報道がなされている。
一時は実質破たんしていた日産をⅤ字回復させたと賞賛された人があっという間に転落してしまった。

 

ところでこのニュースでとても関心を持ったことがひとつある。
それは彼の扱いである。
多くのメディアが逮捕されたとたんにゴーン容疑者と「容疑者」として報道していたことだ。
どのくらい前に中年アイドルが事件を起こした際は「メンバー」という何とも不思議な敬称扱いをしていたのに、世界的経営者は即座に容疑者と呼ばれだし、おまけに日産の社長からは呼び捨てされている。
この点が実に興味深く思えた。


それともうひとつ興味深く思えたことに多くの日本人がそれを受け入れており、またどこか日本人が日本の会社を取り戻したというムードとなっているように思えるのだ。

なんだか日本人の隠し持つアイデンティティを見たような気がした。

 

思うに日本人とは基本お上に対して頭を下げる民族であると思う。
総理大臣という日本を代表する者は当然のことながら、近所の学校の教師、あるいは一芸に秀でた人も、たとえその人が年下であったとしても「先生、先生」と呼び、あたかも敬っているようにふるまうのだ。
いや実際に敬っているのだろう。
けれどもその先生方が何らかの過ちを犯し、失職したり、ましてや逮捕されたりするやいなり、下がっていた頭が上がり、今度はさげすみ始めるのだ。

 

それは近年だけでなく昔からそうであったように思う。
例えば江戸時代もそうであったように思うのだ。
江戸末期日本に来た西洋人を見て日本人の多くはもの珍しさも相まってニコニコ受け入れた。
「あれは何者ぞ」という感覚と同時に、「よう来たな~もし。」「お茶でも飲んでいき~。」と親切をほどこし、しばらくして「ハイ、さようなら」というものだ。
そこにはおもてなしの心もあれば、お互いに気持ちよくひと時を過ごすという世渡りもある。
けれども実はこの間によく観察しているのだ。
だからもしその人がずっといて偉そうな奴だと思えば、さっさと帰ってやと思うし、ホントに悪いやつと思えば、場合によっては切り捨て御免となる。

 

だから今回いくらⅤ字回復させたといっても、その裏でコストカッターと呼ばれ、多くの人員をリストラ(切り捨て)したことは日本人の心に負の感情を与えただろう。
また創業者でもない一会社役員が毎年10億の報酬を取ることも日本人にとっては負のイメージであっただろうし、ましてやそれが実は倍額であり、それを隠していたとなると、まさにそれは市中引き回しの上張り付け獄門に値するのではないだろうか。

 

日本人はいつも暴れん坊将軍や、水戸黄門のように上のものであっても正直ものであり、本当に庶民となるべく近くにいようとする者が好きであり、尊敬をし続けるのである。
それはドラマだけでなく実世界においてもそうである。
だから孫さん、三木谷さんという創業者であり成功者とされる人たちも、上辺だけの尊敬しか払われないのであり、ましてや今何かと世間をにぎわしている前澤さんなどもってのほかなのである。

 

では日本人が本当に尊敬する人の特性は何かというと、まずは「品」と「質」である。
品とは「品格」のことであり、「あの人は品のある人だ(上品な人だ)」「あの人は品がない奴だ。(下品な奴だ)」となる。
もう一つの質とは「性質(性格、人間性)」であり、「あの人は質がいい(性格がいい、人間がいい)」「あいつは質が悪い(性格が悪い、ろくでなし)」となる。
先ずこの2つを判断するのである。
ちなみにこれは人だけでなくモノにも当てはまる。それが故に日本人は「品質」にこだわるのである。
けれどもこの「品」と「質」のふたつは最初の入り口にしか過ぎない。
日本人が本当に人を尊敬するにはもう一つ大切なことがる。
これが一番大切と言ってもよいだろう。
それは「徳」である。
日本人はその人に「徳」があるかどうかを見て判断しているのである。

 

残念ながら(?)この徳はすぐに、そう簡単に身につくものではない。
ましてやお金があるかどうかは無関係である。
徳を身につけるためには長年の修養が必要となる。
そしてその時々だけでなく日常のあり方が大切であり、そこにじみ出てくるものである。
暴れん坊将軍水戸黄門も、その正義感だけでなく、日本人はその「徳」を見出し喜んでいるのである。
残念ながらゴーン氏にはそれがなかった(?)(足りなかった?)と言わざるを得ない。
自らの欲や利益を優先してしまった。
それを日本人は感じ取り、見放したのである。

 

そこが日本人の奥深さでもあり、歴史のある民族の怖さもでもある。

 

 

こうして癌は作られていく

f:id:ossanvoice:20181109125419j:plain

テレビを見ていると時々「ACジャパン」というものが現れる。大きな災害が起こった時などそのCMだらけだったりする。

これは何かというと正式には公益社団法人ACジャパン(ADVERTISING COUNCIL JAPAN)という法人であり、以前は公共広告機構という名前だったのでこちらの方が分かりやすいと思う。

その活動目的は「公共のための広告活動を通じて国民の公共意識の高揚を図り、もって社会の進歩と公共の福祉に寄与することを目的とする。」(ACジャパン定款より)となっているのだが、簡単に言えば民間の企業・団体が集まって、国民の公共意識を高めるCM作って流そうやということだ民間の企業・団体が集まってといっても公益財団法人なので官僚の天下りがウジャウジャいて国とのつながりもきっと大きいのだろう…。

 

さてそのACジャパンのCMで「日本人の生涯で2人に1人がガン(癌)になる時代」と言っているものがある。

なんだか平気で「2人に1人が癌になる」と言っているのだが、これほど恐ろしいものはないのではないかと思うのだ。

かつては癌の発生も、癌による死亡もそれほど多くなかったのに、今では2人が1人癌になり、死亡原因は癌がダントツのトップだ。

それほど癌は身近に迫ってきているのだ。

 

ところで南米ボリビアに「チマネ族」という先住民族がいるらしい。

彼らは何で知られているかというと世界で最も健康な体を持つ人たちなのだそうだ。

そこで彼らが健康でいられる原因について調査したところ彼らの食生活は、そのカロリーの大部分を、「プランテン」というイモのようなバナナのような、熱帯では多くの地域で主食となっているもので賄っており、摂取品目はそれほど多くないらしい。

カロリー摂取の3分の2が炭水化物(プランテン、キャッサバ)から、 16%は 40種以上の魚から、そして 6%は野生の果実や木の実からだそうだ。

ちなみに市場で購入したものは8%のみだそうだ。

(余談となるがこの結果から現代の栄養学の嘘が分かってくる。)

 

このチマネ族の食生活の調査は5年間にわたって行われたそうなのだが、その5年間にある変化が見られたそうだ。

それはチマネ族の摂取する総エネルギー量と炭水化物の摂取量が特に市町村に近い場所にあるチマネ族の村では、大幅に増加するのが見出されていたというのだ。

そしてチマネ族の間に糖尿病患者が発生しはじめているのだ。

それは何故かというと、流通の発達により食品添加物(ラード、油、砂糖、塩)の消費量が増加したからだそうだ。

その砂糖は精製されたものであり、食用油は脂肪の素となるものだ。

こうして世界一健康な体を持つとされたチマネ族も現在その危機にさらされているのが現状なのだ。

いずれ癌の発生も増えてくるのかもしれない。

 

結局流通の発達により、企業で作られたものを食べる割合が多くなれば多くなるほど病気の発生率も大きくなっていくのだ。

流通過程にのる食品の多くが大量生産されるものであるがゆえに、より多くの添加物が加えられているし、食材には大量の農薬が使用されている。

遺伝子組み換えされたものも多いことだろう。

日本人の癌の増加もそれが大きな原因ではないだろうか。

 

もう一つ2017年に米国カリフォルニア州の公衆衛生局が「携帯電話からの電磁波の影響を減らす方法」というガイドラインを出した。

それには

できる限り携帯を身体から離しておくこと、

電磁波が強くなる状況下では使用を控えること、

ベッドや頭の近くに携帯を置いたまま寝ないこと、

イヤホンなども携帯を使わない時にははずしておくこと、

電磁波除去装置などの防御機器類を信用し過ぎないこと

が書かれている。

科学的にはまだきちんと証明されていないが携帯の電磁波と脳腫瘍の関連性が疑われているからだ。

私たちは現在この携帯(スマホ)の電磁波をはじめ電磁波だらけの生活を送っている。

そしてそれはますます強力な電磁波にさらされるようになっている。

要注意だ。

 

こうして企業は人間の人体を平気で危険に晒していく。

すべては利益獲得のためであり、そこには人々の健康を考慮するというよりも、いかにすり抜けるかが優先されている。

ここには書かなかったが原発事故を起こした電力会社のあり方がそのものだ。

けれどもそれを促し、よしとしているのは私たち消費者でもある。

なぜなら私たちがそれを選んでいるからだ。

 

私たち人間は便利さを追い求める生き物である。

そのために脳も発達してきた。

けれども度を過ぎてしまいいつしか私たちの生命を脅かすものとなってきた。

それこそが2人に1人が癌となることの証しだ。

残念ながら企業はそこまで面倒をみてくれはしない。

がん保険だって最終的には利益目的だ。

そこで今私たちに求めているのは思慮分別であり、取捨選択である。

何をよしとし、どのような価値観でもって生きていくべきなのか。

ACジャパンは民間企業の集まりだけにそこまでの答えは与えてくれない。

政府や国会議員も同じ穴のむじなだ。

つまり私たち自身で考えていくしかないのである。

もしその答えが出なければ2人に1人が、3人に2人、4人に3人と癌になっていく者が増えていくだけだ。

2025年はドクターたちが益々我が世を謳歌する世となっているかもしれない。

自滅していくしかないことも知らずに…。

 

 

 

ハロウィンパーティよりも文化祭しよう

f:id:ossanvoice:20181029134931j:plain

 

近所で毎月月末に行われるイベントを覗いてきた。

随分前から行われているのだが、特に興味をひかれることもなくこれまで一度も訪れたことがなかった。

けれどもたまたますぐ近くに用事があったので、ついでに足を運んでみた。

そこには野菜や花を売っているお店、食べ物を売っているお店、ハンドメイドの雑貨を売っているお店などいろいろなお店が出ていたのだが、その中でひとつのお店に目がとまった。

越野寒梅、久保田、剣菱etcかつて飲んだお日本酒の一升瓶が随分と値引きされて売られている。

これは…、買わなければ!!!

先日おっさんは備前焼のぐい飲みを購入したばかりであり、このお酒を買って飲め!と神様からのお告げではないか!?

イベントでこんなものが売られていたとは…、もっと早くに来ていれば…、嬉しさと、悔しさとを一度に味わった瞬間であった。

さてイベントといえば、今や全国的なイベントとなったかぼちゃのイベント、ハローウィン

商店街で仮装パレードが行われたとか、荒れて騒ぎが起こったとニュースにもなっていたが、あれは一体何なんだ???
 

そもそもハローウィンとは、もともとはヨーロッパのケルト人の1年の収穫を祝うことと~ケルト人では1年は11月1日に始まり10月31日に終わるそうだ~、その年末には先祖の魂が戻ってくるために迎え入れるためなのだが、その時に悪霊も一緒についてくるので、それらが家に入ってこないように、子供たちをさらうことがないように追い払うことを目的とした行事から発生したものだ。

それがキリスト教徒(カトリック教徒)と結びつき、更にはアメリカでイベント化され子供たちのイベントとなり…、そして遂に日本へと輸入された。

十年前はこんなものキリスト教徒を名乗る者たちの教会イベントにすぎなかったものが、今では親子揃って仮装行列とは…。


そして渋谷駅前は仮装した人たちで溢れ、DJポリスも出動するが、夜間の騒ぎは収まらず、ホリエモンならぬ逮捕もんも出て、一晩なければ街はゴミだらけとなり、まるでポルターガイストの世界。

悪霊退散どころか悪霊に取り付かれた者だらけ状態だ。

 

しかしこのハローウィン、日本での出所をたどれば、きっとアメリカからの内需拡大要請に、
政府が雇った怪しいコンサルタントの入れ知恵、スーパーやデパートの消費拡大目当て、そして新しいものを取り上げそれを情報と称して国民の消費せよせよ洗脳を繰り広げるマスメディア群、
名付けて消費せよせよコングロマリットどもが日本人のお祭り好き&アメリカモン好きを上手に利用し、
まんまと若者を中心とした国民がのせられたというところだろう。


おっさんに言わせれば、「楽しいことは自分で創るものや!」と言いたいのだが、今の日本ではそれもなかなか難しいことだ。

何故なら今の大人の大半はサラリーマンで、仕事に行けば機械に使われ、機械の如くに働かされる。

子供たちは学校が終われば塾に習いごとと人工物の中で競争に追われるばかり。

大人も子供も両者ともに考える時間もなく、流されるまま、そこにしがみつくのがやっとの状態であり、ストレスだらけとなっているのが今の日本社会。

せめて仮装して普段の自分と少し変わってという変身願望が如実に出たのだろう。

日常でうっぷん晴らしとしてコスプレして出ていくのはためらわれるので、年の一度のイベントならば多少奇抜な格好をしても、赤信号みんなで渡れば怖くないの如く、みんなで変装すれば恥ずかしくない!


この元凶の本をただせば、大人の責任であり、政府(国会議員)、大企業、マスコミをはじめ近代日本の中枢にいた人たちのせいである。

彼らの未来を考えた行動ではなく、自己利益獲得のための行動によるものでる。

国民も大半は犠牲者なのだ。


しかしながらこの状況にいくら文句を言っても仕方がない!何も始まらない。

そこでおっさんは新たなる提案をしてみたい。

それはハローウィンなんかの仮装パーティで盛り上がるよりも、文化祭でみんなで演劇をしないか?というものだ。


実りの秋、収穫の秋。それはスポーツの秋でもあり、また芸術の秋でもある。

ちょうど学校でも学園祭や文化祭が開催される時だ。

ならばそれに合わせて地域々々で演劇を楽しむというのはどうだろうか。

それも演劇を見るのではなく、演劇をする側となるのだ。

各地区で演劇を準備し、発表するのだ。何なら家族で演劇をしてもいい。

そしたら日常の自分とは違う役柄を演じられる。

衣装も自分達で作って仮装もできる。

セリフを覚えて、みんなで合わせて練習する。

頭の体操にもなれば、地域や家族同士のコミュニケーションともなる!
 

消費せよせよ戦略にのせられてお店で売っている仮装衣装を買って、それを着て行列をなして薄っぺらい一体感を味わうなどよりも、よっぽど「みんなで作り上げたぞ!」というごっつい一体感を味わえる。

お客さんの反応はどうだったか?喜んでもらえたか?と考えもする。

自分自身を向上できるし、地域の一体感(安全性)も増す。

生活をより豊かにすることもできる。

まさに一石二鳥どころか三鳥、四鳥にもなるではないか!!


そして終わればみんなで乾杯!

子供はジュース、大人はビールにお酒にシャンパンに何でもOK!

これなら子供たちにお菓子を上げても文句を言う大人はいないだろう。

そして子供達の寝たあとは大人の新たなる仮装パティタイム(笑)。

渋谷の荒れた酒ではなく、うまい酒が飲める。

こんないいことはない!

これで日本の文化度は成熟度を増すぞ!

いかがかなおっさんの提案は?

 

 

 

心にしみる酒

f:id:ossanvoice:20181022091418j:plain

「旅」といえば、中年以上の人々が思い出すもののひとつは「寅さん」であろう。

寅さんが引き越す旅での珍道中と恋する姿、笑いながらも、時にしみじみとさせてくれる映画だ。

先日「男はつらいよ」を久しぶりに見た。そういえばニュースで寅さんの新作(?)が作られるとのことなのだが、昔の画像でもつなぎ合わせるのだろうか?

それとも誰かが子供時代の寅さんを演じ、新しい寅さん誕生となるのだろうか?

さて、寅さんとまではいかないが、秋空に誘われてフラッと旅に出た。

鈍行列車ではなく、特急列車の窓からなのだが、あちこちで稲刈りの真っ最中であった。

 

そんなわけで久々におっさんが暮らす地方の一都市から、その1.5倍(?)程の大きさのとある地方都市にやって来たのだが、随分と大きなビルやらホテルが立ち並んでいた。

しばらく街を歩いてみると今度はやたらと大きな病院が目立つ。

そして少し行けば老人施設がある。

高齢者社会だけにどこもかしこも医療・介護だらけだ…。

そのまま歩き続けると今度は同じ医療系でも精神科の大きな病院が…。

今の社会年寄りばかりではない、精神を病んだ人が都市の大きさに比例、もしくは放物線を描くかのように増えているのだ。

都会のビル群の中にいるとどこか精神が蝕まれてしまいそうだ。

 

さて電車に乗って小さな町へ行こうと再び駅に戻ったのだが、ホームで電車が来るのを待っている間、そして電車に乗っている間、周りの老若男女そのほとんどがスマホをいじっている。

若者に至っては90%以上がそうだといっても過言ではない。

一体何を見ているのだろうかとのぞいてみたのだが、おばさんは何やら記事を読み、若者はSNS系のものを…。

どちらもよく分からない。

ただひとつスゲ~ッて感動したのが、スマホの速さだ。おっさんのスマホは4年経過するので、動きが超悪い。

最近では「表示できませんでした」なんてよく出てくる。

それに比べみんな指の動きに合わせて次々と画面が変わっていく。

世の中の進化とはいったいどうなっているのだ?

田舎の地方都市に暮らすおっさんは浦島太郎級だ。

 

そこでおっさんはスマホに対抗するかの如く取り出したのが、単行本。

しかもお店の人にカバーをつけてもらったもの。

普段はカバーなどつけてもらうことなどないのだが、この旅のために付けてもらった。

そしてその本の中身は「空海曼荼羅」。

どうじゃ~!!!と思うのだが、誰も反応してくれない…。

インテリのふりをしてはみたものの、ドンキで買ったシャツにユニクロのズボンではそうもいかないか…。

男は服装ではないのだが、やはり見た目は大切。

人は最初の15分ほどで、その人に対するイメージを固定するといわれるし…。

 

そんなわけで電車を降り、小さな町をぶらぶらと歩き、お店の中に入っては、陶器のぐい飲みを見て回った。

今回の目的は手作りのぐい飲みを購入することだ。

これまでどこかの工場で大量生産されたぐい飲みを使っていたのだが、陶器で手作りされたものがどうしても欲しくなり、このまちへやって来たのだ。

何件も見て回り一番気に入ったものを購入した。

これで明日からの酒がより一層うまくなる!

ご機嫌麗しき中再び電車に乗り、都市へと戻った。

 

電車を降り、時間を見てみると18時前。

少し早いがどこかで晩飯を食べようと再び街の中を歩きだした。

金曜日ということもあり、仕事帰りの人々や学生たちで夜の街は賑わい始めている。

種々多様なお店が立ち並んでいるが若者グループの多い店には行きたいと思わない。

できればこじんまりした所がいい。

ついでに肉はほとんど食べないので海鮮ものの店に入りたい。

どこかよさそうなところがないものかと20分ほど歩いていると「浜焼き」と書かれたお店を発見。

外から中を見るとテーブル席もあるがそこにはそれほど人もいない。

カウンターにはおひとり様のサラリーマンが2名ほどいる。

ここにしよう!と店に入った。

そして案内された席がちょうどおひとり様2名の間だった。

 

まずは生下さいと注文し、しばらくしたら両隣のおひとり様とも話すこともあるかなと思っていたのだが、この二人ずっとスマホをいじっている。

おまけに2人ともタバコを吸っている。左手でスマホをいじりつつ、右手で箸を持って食べたり、グラスを口元へ運び、そして今度はタバコを吸ったりが繰り返される。

その間視点はずっとスマホだ…。

それ以外見る気配もない。

 

仕方がないのでおっさんも一瞬スマホを手にしたが、特に見るべきこともない。

黙って調理場の人たちを見つつ黙々と食べた。

店の大将が話しかけてくれるかと思ってもみたが、若者が取り仕切る店で、おっさんの目の前で調理人、ウエイトレスみんながおやつの先取りじゃんけんを始めるという始末。

一体どうなんているのだ???

おっさんはなんだか情けなくもあり、寂しくも虚しくもあり、この先社会はどうなっていくものかと考えてしまった。

ビール一杯、焼酎一杯飲んでその店を出た。

 

都会はこうして孤独が進行していくのだな~。

そりゃ精神も病むわな~。

地方の一都市がこんな具合ならば、東京などは一体どうなっているのだろうか。

宿にチェックインし、スマホを取り出し見ていると、「深夜食堂」という映画が表示された。

新宿で夜0時から朝まで営業するお店を舞台にした人情ものの映画だった。

なんだかいつもよりも余計に心に沁みた。

旅が終われば今日買ったぐい飲みで焼酎を飲みながらまた「寅さん」でも見よう。

 

 

ショッピングセンターから小規模経済へ

f:id:ossanvoice:20181016100841j:plain

天気も安定し、穏やかな日々が続いている。

こうして平和な日々が続くことを誰もが願っているのに、世の中にはそれを壊して自分が独り占めしようとする奴が大勢いるのも事実である。

困ったもんだ。

そんな奴はお酒を飲んで寝ていてくれるといちばんいいのだが…。

 

さてデパートの売上の減少が言われ出して久しい。

最近も老舗のデパートがどこかの店舗を閉鎖するというニュースが流れていた。

けれども今やデパートが閉鎖してもほとんど気にする人はいないだろう。

なぜならみんなもうデパートの時代ではないことを知っているから。

唯一残念だと思う人々がいるとすれば、北海道展など全国物産展ファンぐらいではないだろうか?

 

おっさんが子供時代は時に家族と一緒にデパートに行くことは楽しみだった。

デパートは街の中心地に位置しバスに乗っていく。

そのそばには商店街があり様々なお店が軒を並べている。

そこを歩きながら時には服などを買ってもらうこともあるが、ほとんどの場合は人ごみの中をお店を眺めて通り過ぎるばかりだった。

それでも楽しかった。

最大の楽しみはデパートの屋上近くの階にあるレストランに行きお昼を食べる。

あるいは屋上で催されているイベントを楽しむことだった。

 

そして時代は移り変わり、人の流れはデパートからショッピングセンター(SC)へと移り変わっていく。

一家に一台どころか、大人それぞれに車1台となり、(無料の)駐車場が完備されているSC時代となる。

けれどもよく考えてみれば人々がしていることはほとんどおっさんの子供時代と変わらないのではないだろうか?

だから今はSC全盛期で、そこにあるお店は儲かっているのだろうと思うのだが、実はそうでもないらしい。

ショッピングにセンター(SC)入っているアパレル店舗は苦戦を強いられているそうだ。

売上は増加しても利益は減少であったり、営業赤字に陥っているところもあるとのことだ。

 

なぜそのようなことになっているかというと、その原因はやはりネット社会の進化にあるようだ。

アマゾンを筆頭に店舗無しショップは、その分安売りをしていたりもするし、オークションも盛んだ。

そして比較サイトが充実化したことで、人々はモノの比較、値段の比較をし、ネットでの購入となっているからだ。

更にはこのところメルカリなどフリマなど個人売買も盛んとなり、それらが既存のアパレル店舗の売上減少を招いているらしい。

 

それではこの先SCはどうなるのかというと、その未来はアメリカを見れば分かる。

なぜなら日本はアメリカのポチの如くその尻尾を追いかけているので、アメリカを見れば日本がこの先どうなるのか分かるのである。

そしてそのアメリカだが、日本よりもいち早くSCが誕生し、さらにネットでの売買もいち早く盛んになった。

そこでアメリカのSCがどうなったかというと、

実は廃墟と化しているのだ。

 

現在アメリカにある小売業は続々と廃業している。

例えばあのトイザラスは全店舗を売却・閉店を発表し、アパレルのGAPはかなりの店舗を閉鎖するなど、誰もがその名前を知っているような小売業が消えていこうとしている。

小売業に限らないが大手といわれるところは、巨額のマネーが動くだけに、傾き始めると放物線を描くがごとくにある地点を過ぎると急速となる。

それ故に一挙に撤退・閉店となる。当然のことながらそれらはSCに入っていたところでもあり、それらがなくなることでSCは閑散とし始め、それに伴い人々も離れていく。

それが悪循環となりやがては廃墟と化していくのである。

 

すなわちこれが日本のSCの未来像である。

今日本ではそれほど人口の多くないところでもSCが続々とオープンしている。

この人口規模でこれだけの巨大な施設が必要なのだろうかと思ってしまうようなことがある。

ただでさえ少子高齢化、人口減少社会になっているのに一体どのような未来を見据えているのだろうかと思ってしまう。

おそらく初期投資分を回収してある程度の利益を稼いで、そしたら撤退するということも彼らの頭の中には入っているのではないだろうか?

その間にこれまであった地元のお店は太刀打ちできずに店を閉めているそこには何もない状態となっている。

そして起こるのが更なる地域の衰退である。

 

彼らは地方のことなどまるで考えていないのである。

そこにあるのは自分たちの利益ことのみである。

いかに巨額のマネーを動かし、巨額の富を得るかだけである。

そこには地域の活性化などというものはない。

口先だけはそれがどれだけ地域のためになるかという。

けれどもその裏には自分たちが(巨万の富を)儲ける範囲でという言葉がついているのである。

 

そこでおっさんは思うのである。

SCがどうなろうと構いやしない。

いや、そんなもの消えゆくのが関の山である。

放っておけばいい。

それよりももうこの規模の経済(=インチキ)を終わりにしようではないか。

そして俺たちの時代を取り戻そうではないか!

 

いや実のところを言うと、規模の経済はすでに終わりが来ているのである。

何故なら今や人々の周りには(安)ものがあふれ、その奥がもの疲れ、買いもの疲れをしているのである。

若者はものを持たなくなってきている

若者だけでなく大人の間でも「断舎利」という言葉が流行っている。

それをさせまいとネットもテレビもあらゆるメディアが人々に欲望を掻きたて、消費させようととしているのである。

 

でもね、見てごらんなさい、今にぎわっているのは実店舗で言うとセカンドハンドのショップであり、フリマである。

いわゆる古着であり、それらをアレンジして自分のものとしているのである。

 

時代は変わってきているのである。

人々は小さなお店でオリジナルなもの、本当に気に入ったも、そして長持ちするものを買う時代へと入ってきているのである。

そこにあるのは売り手買い手の互いの喜びの分かち合いである。

もちろんこれまでも相互の喜びはあっただろうが、そのバックには大手の巨額の利益があった。

その分け前を得るためにメディアがあった。

平気で嘘もつく体制があったのである。

 

さあ人々よ、賢くなろう。

政治家、大企業、メディア、それらの結託した陰謀を蹴散らしてしまおう。

奴らの金儲けの犠牲となるのはもうやめよう。

そして大量消費生産された焼酎を大量に飲んで悪酔いするよりも、うまい焼酎をぐい飲みで一杯飲んで気持よく寝て、すがすがしい朝を迎える日にしていこう!

奴らの奴隷になるのをやめて、

我らおっさん人類に弥栄!!

 

 

自転車研修生って…日米親和条約みたいなものやね

f:id:ossanvoice:20181009113430j:plain

秋の空は天高く気持ちがいい。

草むらの上で大の字になり雲の流れるのを見ていると、ただただ自然に身を任せるのが一番だと思う。

焼酎を一杯ひっかけて寝る。これまた上機嫌!

気がつけば虫に襲われているかもしれないけれど…。

 

もうどのくらい前からになるのか分からないが、夕方6時過ぎにおっさんの家のそばの道路を自転車に乗ったお姉ちゃん(おばちゃん?)たち4,5人が賑やかに通り過ぎる。

朝から元気やね~と思うのだが、何を話しているのかは全く分からない。

何故なら日本語じゃないから。

おそらくベトナム語ではないかと思う。

おっさんの家から1キロほど先にある冷凍食品会社があり、そこで雇われているのではないかと思う。

彼女たちはいわゆる実習生(研修生)という人たちだ。

十数年前まではほとんどが中国人だったのだろうが、今や中国も経済発展を成し遂げ、もうほとんど来なくなっているようだ。

日本に来るよりも自国で働いた方がなにかといいのだろう。

代わりに東南アジアの人々が研修生となり、この頃はベトナム人からミャンマー、あるいはネパールからも来ているようだ。

(タイから来る人は少なくなってきているみたいだ。)研修生の出身国も次々と変わっていく。

 

さて、先日朝5時30分ごろ家のドアを開け郵便ポストまで新聞を取りに行ったところ、遠くからワイワイ声がだんだんと近づいてきた。

顔は分からないがいつも通り過ぎていくお姉ちゃん(おばさん?)たちだ。

こんな時間から会社に向かっているということを初めて知った。

でもちょっと待てよ。

彼女たち毎日18時半ごろ家の前を通るのだから、1日10時間以上、へたすりゃ12時間近く働いているのではないか???

働いているのか、働かされているのかよく分からないけれど、よう働くな~!!!

 

ところで以前野菜の加工場でアルバイトをしたことがあるのだが、そこでは毎日機械の中にキャベツなどの野菜を入れて千切りや角切りにしていた。

そして別の部門ではそれらを決められた数量袋に詰めるという作業を行っていた。

機械を使う人は1日中キャベツやネギを機械の中に入れていくのが仕事、袋詰めの人は1日中キャベツや玉ねぎを計量器で測り注文の数だけ入れていくのが仕事だった。

勤務している間いわゆるほぼ単純作業を永遠と続けていた。

そこのオーナーがいくら人を募集しても人が来ない、来てもすぐやめたり、前からの人が辞めていき、人手不足の解消とならない。

だから今度ベトナム人の研修生を受け入れるといっていた…。

それから考えるとおそらく彼女たちも冷凍食品工場で機械の前に立ち永遠と何らかの単純作業を来る日も来る日も行っているのではないだろうか?

それも1日10時間~12時間…。

(もちろん休憩時間はあるのだろうが…。)

 

日本では彼女たちのことを「研修生」とか「実習生」というわけだけど、一体何を研修するのだろう?

どんな技術を身につけようとしているの???

いわゆる単純作業をわざわざ日本に来て学ばなければならないのだろうか?

例えばシステムを学ぶということならばまだ分かるような気がするけれど、事業主がそれを教えようとか、学ばせようとしているようには全く思えない。

 

結局研修生とか名前は付けられているけれど、人手不足の解消であり、しかも低賃金で働いてくれる人を確保するということなのだ。

そして彼女たちも母国では仕事がなかったり、もっと低賃金であったりするために、少しでも稼いで国の家族に仕送りをするために日本にやってくるわけだ。

たとえ日本で100円だけの余剰だとしても、それが母国では500円以上の価値があったりするのだから、日本で働いた方がよいということだ。

彼女たちも(基本)最低賃金は保証されている。そして残業すれば割増もつく。

それでもって貯金をすれば実習期間の3年(5年)後に母国に戻ればそこそこの暮らしのできるお金となるというわけだ。

 

でもなおっさんからすると遠い国まで来て、朝から晩まで単純労働に携わり…。

何かで読んだか、見たのか覚えていないが、彼女たちは実習生として日本へ来るに当たって、斡旋業者に手数料を支払って、時には借金をしてまでしてくることもあるらしい。

そして職業選択の自由もなく、割り当てられた企業で3年間(5年間)働かなければならないとのこと。

これって合法的な有期奴隷労働契約ではないか?

それでもって会社の社長は売上を上げレクサスLS、いわゆる日本の最高級車に乗っているという…。

 

そこでおっさんは思うのだ。

この研修制度をやめるというよりも、もういい加減に機械で大量生産するのを止めないか?

人間が機械の一部となり、単純作業を繰り返す。

そして作業工程でいろいろな添加物が投入され長期間保存できるようになる。

(化学物質を投入することが仕事という人もいたりもする…。)

そして毎日何千個と作られ、それがトラックに積まれ一斉に全国のスーパーやドラッグストアに届けられる。

たとえ全国でなく、地域限定の品物だとしても、新鮮さを保つ(新鮮に見せるため)様々な添加物が加えられる。

チラシを見てごらんなさい。

安売りされているものは生鮮食品以外ほぼ大量生産されるものばかりだから。

それでもって安くは手に入るのだろうが、世の中を見渡せばなんだかゆとりのない社会が出来上がっている。

 

そんな機械に使われて生きるよりも、少量で手作りし、みんなで分かち合う。

そんな社会をつくらないか。

その地のものはその地で買う。いわゆる地産地消型社会。

時に旅行に行った際にその地のものを食べればいいではないか?

 

それに世界の生活水準は徐々に一定になってきている。

そりゃ格差は激しいけれど、中国や東南アジアから多くの人々が日本へ観光にやってくるようになっている。

一時は中国観光客の爆買いも話題となった。

そんな中でいつまでも研修生と名付けて奴隷労働のようなことを続けるのはいかがなものだろう?

今の研修生の出身国が経済発展を遂げたら次の研修生はアフリカ人にする??

 

人口減少と共に国内の市場は縮小していくのは当然のこと。

そのような中で従来通りの生産システムを維持すること、そして世界と経済競争を繰り広げることをしたって、無理が生じるばかりで社会はますます窮屈になっていくのではないだろうか?

それよりも新たなる社会を作り出すことを重要視して、それを世界へ提示することの方が大切なように思うのだ。

銭のために機械の奴隷になるなんてホントは誰だって真っ平御免ではないだろうか。

人間は本来もっとクリエイティブな生き物であるはずだ。

俺たちの脳は何のためにある!?

 

焼酎だって機械を使って大量生産されたものよりも、手作りされたものの方がずっとうまいのだ!

みんなで今の社会を抜け出して人の手のぬくもりを感じられる世界を作ろうぜ!