おっさんの寝言、小言、独り言

焼酎好きおっさんの「娑婆」論考。

24時間のファイト一発

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秋も深まり美味しいものが沢山出廻る時期となった。

焼酎のお伴もいろいろとあるけど、焼きナスなんかもいいし、キノコなんかいいよね~。

まさに食欲の秋! 一杯やりながら食べて、虫の音を音楽に寝て、また次の日がやってくる。日々有り難しだ。

でも油断ならぬことは体重の増加だ。

年を取ると新陳代謝がどんどん悪くなるから、食べすぎには気をつけなければ! でもやっぱり食べたい…。

そこでならば運動でもするか!となるのだが…。

 

さて、このところ増えているシリーズを書いているのだが、最近また増えつつあるな~というものを見つけた。

それはここ最近というわけでなく数年前からなのだが、増えているもの、それはフィットネス、スポーツジムだ。

人々の健康に対する意識の高まりはいいことだが、フィットネスクラブの何が気になるかというと、このところ24時間営業というジムがオープンしているのだ。

わざわざ夜中まで走ったり、筋トレしなくてもいいやんと思うのだ。

夜は寝るものだ。

もちろんいろいろな仕事で夜働かなければならない人も多くなっているのだろうけど…。

トレーナーや受付の人は起きて夜中じゅう仕事せないかんとなると、それって健康どころか不健康じゃないの?と思うのだ。

 

それともうひとつ思うのが何故みんなジムに通いたがるのかということだ。

ジムに行かなくても体を鍛えるならば外を走ってもいいし、山登りしたっていいのだ。

家で腕立て伏せ、腹筋したり、公園で懸垂したっていいのだ。

わざわざジムに通わなくてもよいではないか。おっさんが最もおススメするのは、鍬持って畑に行って土を耕すことだ。

これが心にも身体にも一番いい!ついでに美味しいものも後から実って、更にお得!!

まあ都会では無理な話だが、おっさんが住んでいるのは地方都市であり、まだ土地にもソコソコ余裕のあるところだ。

そこでわざわざコンクリの箱モノの中でトレーニングマシーン使って運動しなくても…。

なんだか人間はどんどん自然と離れていって、人工物ばかりに囲まれているようになっている。

それではいくら体鍛えても機械のようになっていくばかりだ。それとも周りに誰かいないと寂しいのかな???

 

ジムに通うためにはお金もかかる。

入会金に月々の使用料など出費は増えていく一方だ。きっとそこまで車で行くのだろうし…。

そのためにまた働かなければいけない。

残業代から月々の費用を賄う??

その働く仕事も面白くもないものが世の中あふれている。

毎日8時間、あるいはそれ以上同じことの繰り返しであり、更には機械に使われて、なんだか俺らがロボットとちゃうか?と思ってしまう。人

間て意思ある生き物だぜ!

 

ところでおっさんは夏の終わりと同時に走り始めた。

8月の子供のキャンプにスタッフ参加して余りにもの体力のなさに愕然としたためだ。

それ以来週に3,4回30~40分程度だけど走っている。

それも超ゆっくりだ。

子供の自転車にも追い抜かれる。

まあこの年になると膝も痛くなるので膝と相談しながらのランニングとなり超スローとなるのも仕方がない。

まるでカメの如くに走る。

そして公園で懸垂して腕を鍛えたり、脚を上げて腹筋を鍛える。

正直走る姿も、懸垂の姿も傍から見ると無様かもしれない。

けれどもなるべく外で、外の空気を吸って、景色の変化を見ながら運動をする。

少し距離を伸ばして田んぼの中を走るのは気持ちがいい。

唯一(ひざが悪い時ランニングの代わりに)泳ごうと思った時にプールに行くし、雨が降ってるけどちょっと運動して汗をかきたいという時に(公共の)ジムを使う。

けどジムにあるランニングマシーンはずっと同じ景色のままで正直嫌いや…。

あれも考えようによっては人間が走らされているみたいなものだ。

おっさんとしてはまた山登りができるようになりたいし、いつかはトライアスロンにでてみたいと思う。

 

だから自然と接する中で体を鍛えたいと思う。

そして毎度のこととなるが自然と共にある生活を心がけたいと思う。

自然素材の家に住み、走る時はポリエステルなどの衣類であったとしても、普段は自然素材の服を着て生活したいと思う。

時に応じて人工物も使うこともあるが、基本は自然と共にある。

現代科学のメリットを生かしつつ、古き良き日本を活かした温故知新な生活をする。

そして夜はうまい酒を一杯飲む。

そんな生活を心がけたいものだ。だから夜は寝るし、24時間ジムなど不要だと思うのである。

 

 

夢のマイホームは30年

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秋が深まるにつけ、あの暑かった夏のことをすっかり忘れてしまったようにも思うこの頃。

思うに忘れるということはよいことでもあり、それが故に同じ過ちを繰り返してしまうということでもある。

ついつい飲みすぎて翌日苦しい思いをし、もう二度と飲まないぞと思うのと一緒ではないだろうか。

 

さて先日近所でドラッグ戦争が勃発していること、つまりドラッグストアが次々にオープンしていることを書いたが、
最近の流行として次々にオープンしているものがもう一つあった。

それは建築会社、住宅会社だ。

設計事務所といってもよいのだろう。
(あまり縁のない世界なので細かい違いなどおっさんには分からない。)

 〇〇ホームとか、〇〇工房、〇〇スタイル、あるいは〇〇設計事務所とかいろいろな名前が付けられているが、要はマイホームを建てる建築屋だ。

それが次々とオープンしているのだ。

 

近頃は月々の家賃並みの費用(ローン)で住宅を購入できるということで、住宅ブームとなっている。

以前ならばもうしばらくアパート、コープ住まいであった人たち(若者)がそれならマイホームを建てようという動きが広がっている。

そこで一級建築士などの資格を持った大学出の技術者が何年かどこかの建設会社で働いた後、独立して自分の事務所を持つというのが流行っているのだろう。

 

今はパソコンとCAD(キャド)で設計図を描き、あらかじめ基礎となる材木もすっかり計測され組み合わせればよいように(工場で)処理され、外壁を始め必要物品も簡単に数量を入力して発注すればよいようになっている。

コンクリで基礎をつくればあとは組み立てるだけとなり、現場で測って切って削ってもほぼなくなった。

それが故短期間で家が完成するようになり、人件費も大幅に削減でき、必要物品も素材も既成品の大量生産されているものを使用すれば安価にできる。

そうして以前よりもずっと安い値段で一軒家が建てられるのだろう。今なら住宅ローンの金利も低い!

 

けれどもあまり文句を言いたくはないのだが、いかにも一代限りの家、30年もてばいいという家だらけが立ち並ぶようになった。

そしておっさんが言いたいのはそれをつくる建築会社の門構え、要は会社の作り自体が安っぽいのだ。

更に言うならばセンスが悪いのだ…。

どう考えても売り逃げしそうな建築会社が増えているように思うのだ。

それが近頃次々と建てられている住宅に現れているように思うのだ。

 

おっさんは思う。

本来家というものは何代にも渡って使われ、そしてそこに先祖も神様も宿り、歴史を感じるようになっていくものだと思うのだ。

その象徴であり、願いが込められたものが瓦屋根ではないかと思うのだ。

屋根の三角形の先端に付けられたあの重厚な瓦、鬼瓦とか獅子口などと呼ばれるものがそれであり、おっさんはあれを見てはすごいな~と思うのだ。

そしてかつての家には作り手の大工さんも自分の作品として、住む人々の幸せと安泰を願い、一生面倒見ようというプライドを持って作っていたのではないだろうか。

でも今やその屋根瓦さえもないような家が次々と建てられる…。

パソコンで図面を書いて、発注して、現場でプラモデルを作るかの如くに組み立てればよいとなると、それをつくる側もプライドが薄らいでいくのではないだろうか。

 

早く作ることで安くマイホームを提供できるのはよいことかもしれないけれど、
それが積み重なっていけばいつしかとりあえず耐震など法律に定められたところを最低限守り、
あとはとにかく客の好みに合わせて、数をつくって利益を上げようとする風潮となっていくのではないだろうか?

いや既になっているのでは???

人口減少もあるだろうが、それが故に次々と売り出される家が増えているのではないか?

 

なんだか周りにあるもの全てがスクラップビルドの対象となっていく。

作っては壊し、壊してはまた作る。

そうやってお金を回していく。

残されるのはゴミと自然破壊だ。

それが近代日本であり、ベッチャンノミクスというやつなのかもしれない…。

 

おっさんは汗をかき手塩にかけて作るというスタイルが好きだ!

だからそこに愛着も湧くし、大切にしたいと思うのだ。

食べ物はより美味しく感じ、

ものには魂が宿るようになるのだ。

それらが合い重なって家族を守ってくれるようになるのだ。

だから焼酎も手塩にかけて作られたものを飲みたい。

大切に毎日ちょびちょび飲むのだ。
(お金がないだけだが…。)


夢というものは追いかけている時こそが楽しいのかもしれない。

改めてそのことを思うこのごろである。

 

 

 

高校生とイチゴの関係

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不惑を超えて、知名(天命)に近づいてくると、ある意味心の落ち着きはできてくるののはよいことだ。

けれども身体は放ったらかしにしていると、衰えてくるか、もしくはブヨブヨとなっていく。

そしてまた40年以上体にため続けた毒素が噴き出してきたり、これまで分解されていたものが分解できなくなり、それが別物へと変わってくることもある。

そのひとつが加齢臭というやつだ。

 

おっさんも例外ではない。

少し汗をかいたり、お風呂からあがって時間がたってくると、加齢臭が漂い始め、邪魔者扱い、鼻をつままれる存在へとなってしまう。

今や女の時代ということで、それも自然やと思うのだが、そうするとますます端へと追いやられていまう。

いい焼酎飲んで体の循環を良くしようと思うのだが、24時間酔っ払っているわけにもいかない。

 

そこで必要となってくるのがデオドラントだ。

デオドラントとは、
バクテリアの増殖を抑えるなどして、体臭その他の悪臭を防ぐこと。また、その成分。(「コトバンク」より)

ということで、詳しく区別するといろいろあるようなのだが、

早くいってしまえばおっさんん必要なのは制汗剤であったり、香水であるということだ。

脇につけて、首元につけてこれで一応世の中にも受け入れられるかと思うのだが…、如何なものか?

 

さて最近はテレビでもそれらのものが宣伝もされるし、
更には消臭剤に、香り立つ洗剤やらも発売され、悪臭というものがどんどん社会から退けれられている。

お陰で女性とすれ違うと本来の女性の匂いではなく、化学の臭いとなり、
おさんにとっては何となく興奮さめやり、吐き気を催したくなるこの頃なのである。
(言うまでもなくおっさん自身のことは傍においている。)

 

さて女性の匂いはともかく、最近おっさんが気づいたことがある。

それはおっさんが道を歩いていると時々高校生の男の子たちが自転車でそばを通り過ぎていくのだが、
彼らが過ぎ去ったあとその尾を引くかのようにイチゴのような香りが漂ってくるのだ。

「なんやこの甘い香りは?」と思うのだが、
それはつまり16、17歳の男子も香水をつけているということだ。

 

そこでおっさんは思うのだ。

なぜ故に中高生男子が香水をつけなければならないのだ?

彼らの存在の象徴こそが「汗臭さ」ではないか!!!

運動して、汗かいて、シャワーもないから、タオルで汗を拭いて家に帰る。

そこに汗臭さが漂う。

それは当然のことではないか?

そして若者の汗は、中高年の臭さ漂うバクテリアもおらず、よい汗なのだ!

なぜにそれを気にしなければならないのだ!

そう思いながら自転車で遠ざかる中高生に言いたいのだ。

もひとつおまけに言うと野球部男子からもイチゴが漂ってくるのだ…。(あんたら勝てないよ…。)

 

とホントは叫びたいのだが止めた。

何故なら先日スーパーの広告を見たからだ。

今やスーパーのチラシに載っているものはその90%以上のものが添加物が入っているものだからだ。

冷凍もの、インスタントもの、調味料、お惣菜etc…。

肉だって何が精肉となるまでに使われたか分からなければ、野菜だって店頭に並ぶまでに何を使ったことか…。

 

日本の添加物の認可は360種類以上あるそうで、その数は世界一だそうだ。

そんなものがたくさん入ったものがスーパーのチラシに掲載され、それを購入するために人々は駆け込むわけだ。

そしてその添加物は、その添加物同士がどのように反応するかは明らかではない。

一度添加物と添加物が反応し、何らかの気体を発生させている映像を見たことがある。

体の中で一体どのような反応が起こり、どのような物質が生み出されているかと思うと、恐ろしいものがある。

 

アトピーやアレルギー持ちの子供の割合が増えていることも当然のことだろう。

中高生が汗をかいて若い汗のにおいを発生させるだけでなく、それ以外の物質を発生させている可能性も大だ。

ならばイチゴの香りをさせることも仕方のないことなのかもしれない。

そう思うと汗のにおいを漂わすわけにもいかない近頃の高校生が不憫にも思えるのである。

いずれは甲子園球児も、花園ラグビー男児も、国立競技場のサッカー高校生も、そして武道館の剣道に柔道の高校生もイチゴの香りを漂い合わせて試合をするようになるのかもしれない…。

お面を取ったらイチゴの香りが漂う剣士、レモンとイチゴの香りが寝技をかけあう姿…。

なんと言えばいいのやら…。

二十歳になってお酒が飲めるようになったら、本物の日本酒や焼酎を飲んで殺菌しておくれ。

 

 

 

 

おっさんの小さな行動

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日本の特徴といえば、1年を通じて雨が多く、四季があるということは誰もが知っていること。
きっと今でも小学校の社会の時間に習うのではないだろうか。
いわゆる温暖湿潤気候といわれるものだ。
そのお陰で日本にはうまい酒があるし、それを飲むことができる!

 

ところがどっこい、最近はその気候がどんどん極端になってきている。
雨が降ったら大雨となり、それも局地的な豪雨で、滝のような雨が降り続いたりする。
夏は地獄のような酷暑となり、冬は極寒のように寒くなり凍えそうになる。
もうたまったものではない。
清少納言がいたら一体何と表現するのやら???

 

 

現在世界規模、地球規模で開発という名の地球破壊がどんどん進行している。
南米のアマゾンは毎年毎年木々が伐採され続け、その面積がどんどん狭くなってきている。
東南アジアは益々近代化されコンクリーとアスファルトに覆われるようになっている。
かつては自転車大国だった中国は今や世界の工場となり、自動車が主流となり都市には高層ビルが立ち並んでいる。

 

こうして世界中の開発により、山は削られ、陸も海も穴をあけられ、元の姿はどのようなものであったのか分からなくなった。
森林はブルドーザーによって破壊され、次々と緑は失われていく。
地球規模で空気は汚れ、地球を覆っていたオゾン層は破壊され宇宙から紫外線はじめ放射能がダイレクトに地面に届くようになった。
大地も汚れ、水も汚れてしまい…、考えてみれば気候変動なんて当たり前のことだ。
誰が見ても地球はおかしくなるわな。
それだけのことしたのだから自然に反撃喰らっても仕方がない…。
それなのに「異常気象だ、異常気象だ」と騒いでいる人間はおかしいでしょ。

 

歴史を振り返れば20世紀における科学の発展はすさまじいものがある。
それは同時に地球(自然)破壊の歴史でもある。特に「化学」、つまり石油化学の発達によって地球は急速に汚染され始めた。
それは21世紀となった今も続いている。いや、ますますひどくなる一方だ。
その20世紀の発展の象徴が自動車であり、プラスティックであり、そして薬(農薬・化学肥料を含む)ではないだろうか。

 

けれども21世紀となり石油化学に変わる技術はどんどん生まれてきている。
車は電気自動車の開発は世界中で進められ、バイオエネルギーや水素を動力源とするものある。
その電気も太陽光や風力、潮力など様々な自然エネルギ―があり、日本はその技術力を持っている。
プラスティックも代替製品が次々と開発されている。
宣伝効果を狙ったものであろうが、最近大きく取り上げられたのはファーストフード店の紙ストローであろう。
それ以外にも代替製品は麻などの植物からのものなど様々なものが登場している。
薬だってそうだ。
自己治癒力が見直され、ホメオパシーや周波数による治療など化学物質に頼らない方法が次々と誕生している。
それらにどんどんシフトしていくことが望まれる。

 

けれどもそれを国や企業に任せておけばよいなどという考えは捨てなきゃいけない。
何故なら彼らは目先の利益追求に一辺倒であるからだ。
例えば現在海洋のプラスチックごみ問題が大きく取り上げられている。
海に生きる生物の多くがその体内にプラスティックを取り込んでしまっている。
そこでG7の首脳会談でその解決に向けてプラスティックゴミを削減しようと取り上げたが、日本はその憲章に同意しなかった。
日本は海洋国家であり、海に守られてきた国、そして海の恵みを頂き、海と共にある国である。
それにも関らず海よりも経済や企業利益を優先するというお粗末な選択をしたのだ。
そんな政府に未来を任せておくわけにはいかないのである。

 

私たちは早急に地球をここまで破壊してきたことを反省をしなければならないのではなかろうか?
それも私たち一人ひとりがそれについて考え、行動しなければならないのだ。
そのために必要なことは私たちが目覚めることだ。
つまり覚醒だ。
いつまでマスコミやメディアに騙されて続けているのだ!
奴らは結局のところ自分たちの利益のために動いている。
そしてその利益を提供しているのは本をただせば私たちの選択と行動にある。
企業は宣伝のためにメディアにお金を支払い、その宣伝を見て私たちはそれを購入し使用している。それによって企業は利潤を得て、次なる製品を…と巡っているのだ。
すなわちそれを絶つのは私たちの行動にかかっているのだ。

 

と言ってもいきなりすべてを変えるのは難しい。
けれども何もしなければ地球は破壊されゆく一方で、それと同時に私たちはより大きな災害にあうこととなり、遂には滅びていくことだろう。
故にできることから始めなければならない。
それは毎回の繰り返しとなるが、私たちが何が本当に必要なのかどうかをそれぞれが判断することだ。
メディアに流され続けてはいけない。
便利さ一辺倒になってはいけない。

 

おっさんは焼酎の飲む量を減らしてその分まっとうな焼酎に変えた。
それと近隣の移動は車を使わずチャリンコにした。
この夏クーラーを使わず扇風機のみで過ごした!
おっさんなりにできることから始めている。そんなことからで構わない。
できることから始めて、それを少しずつ増やしていこう!

 

 

ドラッグ戦争

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台風は過ぎ去り、その被害は「どんなに人間が対抗したとしても、自然はそれを超えることができるのだ。」ということを伝えているように思うのだが、おっさんは焼酎を飲んで朝起きて神仏に祈りを捧げ、そして労働に携わり一日を過ごす、その繰り返しである。

 

さて今回のおっさんが吠えたいことは「ドラッグストア」についてである。

おっさんの住んでいるところはまさに今開発が最終段階に入りつつあるホットなエリアで、かつておっさんが子供のころは田んぼだらけだったものが、どんどん宅地化され、アパートや一戸建てが次々と建てられているエリアである。

数年前まではコーポやマンションが建てられることの方が多かったのだが、今は一軒家の方が断然勢いあるな…。

 

そしてそれにあわせるかのようににこのエリアで現在勃発しようとしているのが、痲薬戦争ならぬ、ドラッグストア戦争なのである。

現在おっさんの住み家から半径約2キロ圏内にどのくらいドラッグストアがあるのか数えてみたところ、8店舗もあり、うち2店はここ半年にできあがったもので、更に現在1件オープンに向けて建設中なのである。

 

振り返ればこのドラッグストア戦争の前には美容室と整体のお店のオープンラッシュがあった。

次から次へと美容室と整体が開業し、美容室に至っては両隣、更には道路を挟んで向にもお店ができたところもあった。

ちなみに美容室・整体の前は高齢者介護関係のオープンラッシュで、介護予防、その前は高齢者住宅(高齢賃)が次々と出来上がった。

 

こうして見ると洋服など毎年毎年流行があるようにように、、産業界にも毎年毎年ではないものの、できるお店トレンドがあるのだろうか?

けれどもそのたびに思うのだが、一体こんなにも必要なのだろうかと思うのである。

そしてもしそれが田畑などを埋め立てて出来上がるならば、無駄にしか思えずとても悲しい気持ちとなるのである。

 

というのも数年前に全国展開している大手スーパーAE◎Nがやってきた。

それなりにお客さんも入っていたと思ったのだが、売り上げが目標に届かなかったのか3年ほどで撤退していったのである。

まるで嵐のように来ては過ぎ去っていったようで、結局のところ近隣を荒らしただけで、地域のことなど全く考えていないとしか思えなかったのである。

 

美容室や整体はほとんどのところが個人営業であり小さいお店なのでまだかまわない。

つぶれてしまっても数週間もすればここに何があったのか思い出せないほどのものである。

けれども大規模店となるとやはり地域に与える影響は大きい。

それに巻き込まれる小規模店も多いし、人の行動パターンも変わってくる。

そして今出店ラッシュしているドラッグストアはどこも大規模店だ。

幸いでもないが小規模ドラッグストアは既に廃業しており、その影響を受ける個人商店は少ないのであろうが、地域の人々の行動パターンには大きな影響を与えるであろう。

おそらくこれから数年後いくつかの店舗は撤退したり、あるいはドラッグストア会社同士の買収合併により統廃合されていくのではないかと思う。

その時に迷惑を被るのは地域の人々である。特に高齢者に与える影響は大きいことだろう。

 

資本主義とは競争をよしとする社会である。

それによって人々は切磋琢磨し、より社会が発展していく。

けれどもそれを一歩裏返せば、必要以上に競争合戦が繰り返され、その後に残るのは兵どもが夢の跡の世界である。

いわゆる荒地である。

様々なものが大量に廃棄もされ、無駄に終わってしまう。

人口減少社会の中で繰り返される過当競争とはいかがなものかと思ってしまうのである。

 

大規模店舗に関する規制が緩和され大手のチェーン店が次々と店舗を出店する。

それを役所が止めることはない。

彼らは法に従い認可するだけである。

法を満たしているかチェックする機械の如くである。

そして人々はもしかすると一時的な便利かもしれないものに流されていく。

 

そこでおっさんは思うのである。

眼先の便利に流されてはならない。

何が必要で、何が不必要かしっかり判断することが必要であると。

そのことにもうそろそろ人々は気づいてもいいのではないかと。

けれども世の中は宣伝だらけ。

各メディアの宣伝攻勢にさらされ、洗脳され、人々は消費へと向かう。

 

大規模店舗は大量一括仕入れで確かに安い。

そして人々はその安さに魅かれ足を運ぶ。

かくいうおっさんも広告を見てついついオープニングセールに出かけ、ひげそりクリームに牛乳石鹸と焼酎を買ってしまった。

負けてしまった…。

けれども同じような大規模ドラッグストアが並ぶなら、せめて地域に本社があるところで買おうと心掛けるのである。

 

最後に企業戦略に負けてしまった反省として、おっさんは今日も「畑の中のプラスチック類はいらない!」と農作業に励むのである。

そして夜は一杯ひっかけ、あすの気力を充電するのである。

 

 

こうして時代に取り残されるのだろうが、それでもおっさんなりのポリシーで

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子供の相手をした後は、夜の“大人”の時間がある。

つまりは「お酒」という意味なのだが、
それが楽しみで(?)「夏休みの思い出づくり!海の子どもキャンプ」にスタッフとして参加をしてきた。

 

ところがどっこい、知命(天命)に片足を突っ込みかけ、このところ右肩、腰、内臓etcと体のあちこちがどうもよろしくないおっさんは、
そこにカンカン照りの晩夏の太陽が加わり、ちっとも身体が動けない状態で、
子供たちの相手もろくに出来ず、フル参加することなく逃げるように帰ってきてしまった。
(もともと3泊4日のスケジュールで2日間だけのスタッフです…!)

 

さて、夏の島キャンプということで、「海」=「海水浴」は当然のことながらつきもの。

子供たちは、半分以上海で泳いだり、遊んだりすることを目的として参加するわけだ。
そこで見て感じた現代事情のひとつを書こうと思う。

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まずはおっさんのメモリー(思い出)からだが、
子供時代の夏の海といえば、家族、あるいはそこに親戚や町内会が加わり、大勢で海水浴に行ったということがある。

近郊の、時には少し離れた海水浴場を訪れ、海で泳ぐわけだが、
そこには海の家があり、親たちはその一室(掘っ立て小屋?)を借り、
そこから子供たちが泳ぐ姿を見ていたのだが、
当時の子供たちの格好といえば誰もが水着にビーサン(ビーチサンダル)1つだったわけだ。

 

男の子ならば海パン一丁で上半身は裸という格好をしていたもの。

それが小学校高学年ぐらいになると水中メガネなどを持ち始め、
中学校頃にはそこにシュノーケルが取り付けられ、
凄い人(お金持ち)となると足ヒレを持っているということもあった。

またどれだけ日焼けをしたかということがひとつの夏のステータスであり、
当然日焼け止めを塗ることもなかった。

 

そんなことを思い出すのだが、いつの頃からか海に泳ぎに行くことも少なくなり、
いつしかおっさんはプールに泳ぎに行くことはあっても、
海へ泳ぎに行くことは全くなくなってしまっていた。

ところが今回島キャンプに参加することで十数年ぶりに海で泳ぐこととなった。

そこで見たのは昔とは変わってしまった子供たちの海水浴スタイルだった。

 

男の子のほとんどが海水パンツだけでなく、
長袖の上着を着用し、海用シューズを履き、グローブも付け、ゴーグルをつけるか、水中眼鏡にシュノーケルを持っているのだ。
(女の子の場合水着に更に長袖上着、グローブにマリンシューズ。)

それを見て時代はすっかり変わった、進化した(?)のだな~と思った。

 

子供たちの格好を見た時最初はやっぱ子供は海パン一丁でいいのではないか???
と思ったりしたのだが、
考えてみれば今や紫外線は危険レベルであり、
砂地にもガラス片等の危険物がどこにあるか分からず、
更には人が雇われ管理されているビーチでない限り様々なゴミの漂流物があり、
海の中には今や熱帯性の毒を持った生き物が北上しどこにいるか分からない。

それを考えると身を防御しなければならず、今や子供たちはそういうものを着用するのが当然のこととなっているわけだ。

勿論そこには上着やシューズなどが次々に開発され身近になったこともあるのだろう。

 

そう考えると子供たちの格好も仕方がないと思うのだが、
それでもやっぱり何となくおっさんにとっては子供たちがせっかく自然に接しているのに、それだけの装備を身につけていると、
どこか自然と隔離されてしまっている感を抱いてしまうのだ。
そしてこれは本等に子供たちにとって良いことなのだろうかと考えてしまうのだ。

 

そんなことを言っても時代はどんどん進化していき、それに伴い道具類も進化しているわけである。

考えてみればおっさんの子供時代にしてももっと昔と比べるとそれなりに進化したものを身に付けていたのだ。

更に今や世の中は紫外線だけでなく、放射能も漂うようになり、福島では遂に防護服を着た子供像が現れており…、
きっとおっさんのような考えを持つ人間が一番時代に取り残され、
いつしか世間から鬱陶しがられるのだろうな。
(既に鬱陶しがられていますが…。)

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でもやっぱりおっさんにとってはなるべく自然と共にありたいのだ。

さすがに今回のように炎天下の下に1日中いる時は、長袖を着用し、
日焼け止めを付けるのだが、
普段は日焼け止めを付けることなどなく、
自家製赤米乳酸菌培養液を顔や腕に付けそれで対処しており、
なるべく自然のものを使うようにしている。

 

そこでおっさんの結論として、時代の進化に合わせて道具を選ぶのはいいことである。

けれども企業が生み出したものを何でもかんでもよいものと鵜呑みにするのではなく、
何が必要で、何が不必要かをきちんと吟味して、
それを使うか使わないかの判断が必要ではないかと思うのだ。

何故なら今やメディアやマーケティング世界はどんどん研究され発達し、
(企業が)お金を出せば、不必要なものでも、必需品のように思わせることができる。

更に国民にもっと消費させるということが国(政府)の政策となっており、
それらを何も考えず無条件に受け入れてしまえば、思うつぼであり、
ますます国民が消費奴隷となってしまう世界が待っているからだ。

 

子供たちにはそこまで考えたり、判断したりする力はないのであり、
それをきちんと判断してやるのが親の一つの仕事ではないかと思うのだ。

そして子供たちに自然との接し方を教えること、
そして自然への畏敬の念を教えることも大事やな~と思った次第である。

 

最後に大人の時間を楽しみにしていたのだが、
日中の活動で疲れ果てたおっさんは飲む前から睡魔に襲われ、
眼も開けていられないようになり、缶ビール1本飲むのがやっとだった。

これではあかん。もっと体を鍛えなあかん!と、
日常のあり方を反省させられた次第だ。

 

 

昭和の男

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来年4月末で今上天皇が退位され、平成時代が終わる。

それと同時に新しい元号となるのであるが、
このところおっさんはもう自分がとてつもなく遠い昔の人間となってしまったように感じるのだ。

 

おっさんは昭和半ばの後半生まれ、現在不惑から知命(天命)へと向かうジェネレーションX世代の人間なのだが
(今となってはジェネレーションXって死語だな…。)、
振り返ればかつての20代における数々の栄光(武勇伝や冒険)はどこへ行ったことやら???

30代は確かにそれが大きな自信となり、自分は何でもできるのではないかと思っていた。

そしてそれらがおっさんの強烈な支えとなっていて仕事もガンガンやった。

けれども今ではあの頃のの栄光は遥か昔のことに思われ、
無くなってしまいそうなほど小さなものとなってしまったように思うのだ。

 

そのような状況の中で平成時代が終わろうとしており、
新しい元号となれば「昭和」は「平成」のその前という
2つも前の元号となってしまうのだ。

消えゆく栄光と2つ前の元号生まれというこの2つによって
おっさんが銀河の彼方へ吹き飛ばされてしまったような感覚に襲われている原因だ。

 

おっさんの時代、つまり「昭和」の2つ前といえば「明治」であり、
もう今ではそれほどご存命の方は多くないと思う。

明治といえば富国強兵政策の下、坂の上の雲のごとく日露戦争の劇的勝利から
大正時代・昭和時代の初期と日清戦争、太平洋戦争と大日本帝国としての日本人、
すなわち戦争の時代を思い起こすのである。

 

おっさんは高度成長期の終わりごろに生まれたわけで、
当然ながら戦争を知らない世代でる。

おっさんからしても明治から昭和初期のことなど遥か昔のことのように思えるのだから、
平成生まれの人にとってこの時代はどのような感覚となるものか?

更に新しい元号となって生まれてくる子たちにとっては
「明治時代」とは今でいう江戸時代のような感覚となるのではないだろうか?

ならば彼らにとって「昭和」とはどのような時代として映り、
どのようなイメージを持つのだろうか?

 

昭和の出来事といえば、
戦争から高度成長期、資本主義、共産主義の世界、核の世界、公害、環境汚染・破壊の世界、植民地から独立の世界、バブルの時代、マネーの世界、車の時代、冷蔵庫・テレビ・エアコンの時代、農薬の時代、ROCKにJPOPの時代、アナログからコンピューターの誕生した世界、(世界が)宇宙へと飛び立った時代etc

 

どうもあまりよい時代には映りそうもない。

ひと言でいうと
「人間がマネーと物質文明に狂った、地球環境破壊の時代」
と言われるようになるのではないだろうか?

子供時代を戦期に過ごされた天皇陛下
毎年終戦の日にその反省と二度と繰り返してはならないとお言葉を述べられる。

その言葉も含めておっさんもそう思うのだから、
もしかすると20年後には新たな天皇(現皇太子)が
「もう二度と地球を破壊する行為を行いません」
というお言葉があってもおかしくはない。

 

今年の夏は誰もが今の地球環境の異常を感じていることだろう。

近所のおばさんがたも
「今年の暑さは異常よね~。全くどうしたものかしら?」
と汗を拭きながら井戸端会議に花を咲かせている。

あのおばさんがたも知命(天命)世代から従心世代の人たちだ。

同じように遠くに吹き飛ばされそうな感覚を持っているのだろうか?

異常気象の原因は私とは無関係と思っているようだから、
どんなに世代が離れようともしがみついていそうだ…。

 

おっさんは独り芋焼酎を飲みながら、
おっさんの中に生じた孤独ともいえるこの感覚と向き合うのである。

それが昭和の男である。